ノルウェイの森

プロダクションノート

写真:夏の夕方。ミドリの家で、そっと唇を寄せるワタナベとミドリ。

美は充分ではない

トラン監督曰く「原作がある映画化をする際には、映画はその原作に似ていなくてはならない。それは肖像画と同じようなことで、本人に似ていなくては意味がない。」1994年に村上春樹の原作小説(フランス語タイトルは「La ballade de l’impossible」不可能へのバラード)を読み、その世界に感銘を受けた監督は自らその映画化を熱望したのだが、当初から日本で日本人の役者で日本語での撮影を意識していたのもそういうことだったのだろう。だが、もちろんそのまま映画化するのでは監督のいる意味はない。だからこそ、トラン監督は原作に忠実なことは前提としてとらえつつも、自分なりの新しい「ノルウェイの森」を誕生させようとした。さらに、トラン監督は自分のイメージを保つために、「ノルウェイの森」以外の村上春樹の作品は映画の完成まで封印した。そんなトラン監督が目指したのは「Beauty is not enough」(美しいだけでは充分ではない)ということ。撮影に叙情的な画を得意とするマーク・リー・ピンビンを起用しながらも、撮影用のカメラにはあまり日本映画では使われない独特の色彩表現の出来るバイパーというカメラを使って、「登場人物たちの背負っている世界の重さ」を表現しようとしたり、音楽のジョニー・グリーンウッドには映画の中のあるシーンの緑の表情を見せて、これを音にして欲しいといって登場人物の心象風景を音で表現しようとしたり、単に美しいのではなく、その表面化に潜んでいる人間の感情の激しさ、脆さ、深さといったものまで描き出そうとした。その結果出来あがった映画は、小説ではよく言われている「喪失と再生」の物語とはまた一味違う新たな物語になっている。

あらゆる可能性を

トラン監督の現場はいわゆる日本映画の現場ではない。もちろん、現場で英語が飛び交うなどということもあるのだが、決定的な違いは撮影プランが監督が現場に入ってから決まってくることだ。通常の撮影だと監督は大体事前に演出プランを練っていてそれを現実に落とし込んでいくのが撮影という作業になるのだが、トラン監督の場合は現場に入って現場の空気感を自分の体で感じてから演出プランを練っていく。トラン監督曰く「あらゆる可能性を考えたい」とのこと。特に段取りということを嫌い「何かが起こることを起こるべくして起こるようにしたくない」という信念のもと、現場にある全てのものを自分の目や耳や手で感じてそれを演出に活かしていく。その様は映画監督というよりはアーティストという感じだ。そして、スタッフはそんな監督のひらめきに応えていく。最初のころはスタッフもいつもと違う形にとまどったようだが、撮影が進むにつれ、「これはまぎれもない傑作が生まれる」という予感が確信に変わっていき、素晴らしいチームワークが育まれていった。

人が人を愛すること

トラン監督をして「官能的」と言わしめた兵庫県の砥峰高原。大きなうねりのある草原風景は、まさに村上春樹の小説の中に出てきそうな現実と幻想の中間のような場所だった。天候もめまぐるしく変わり、さっき晴れていたかと思うと、あっという間に雨が降ったりという感じの場所で、そんなある種ちょっと不思議な場所で行われた撮影はワタナベと直子が二人で並んで歩いたり、愛を確かめ合ったり、雪降る中で別れたりという象徴的なシーンの数々だった。特に、直子がワタナベを早朝に連れ出して自分の心情を吐露するシーンは、草原に120mのレールをしいて草原を行ったり来たりして歩く二人をひたすら1カットで追い続ける形で撮影された。自分の過去を吐露することで段々と自分の中の感情が高まっていく直子を圧倒的な演技力で菊地凛子がひっぱっていけば、松山ケンイチはその高まりを少しでも捉えようと必死に、しかし、表面上にはその切迫感は出さない形の抑制された演技力で追い掛けた。このシーン実に1カット5分6秒。愛していながらも壊れていく、それでも愛する人の全てを受け止めようとする姿を表出させ、人が人を愛することの深さや激しさを描いたこのシーンは、ヴェネチア国際映画祭での上映後も様々なマスコミからこのシーンに関しての質問が集中するなど、映画史に残る名シーンとなった。

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